六本木の歴史
いまのはなやかな六本木からは想像もつかないが、六本木はかつて軍隊の町だった。明治時代、陸軍の歩兵一連隊と三連隊が置かれてから、兵隊の暮らす町として発展していった。昭和11年(1936)の2・26事件の時には、この歩兵一連隊と三連隊が主役をつとめた。軍隊が置かれたのは、明治の頃には六本木がまだ東京の中心ではなく、住人も少なく、軍隊用の広大な敷地を確保出来たからである。江戸は元禄の頃の俳人、服部嵐雪に、「あな悲し鳶に取らるゝ蝉の声」という六本木の情景の句があるが、そうした田舎の風景は明治の頃にもまだ残っていた。そこに軍隊が作られた。とくに日清、日露の戦争を通して六本木は、兵隊の町としての色彩を増していった。
 
その六本木も昭和20年8月15日の終戦によって町の様子を一変させる。日本の軍隊のあとにアメリカ軍が進駐してきたのである。陸軍の敷地はアメリカ進駐軍によって接収され、そこにバーディバラックと呼ばれる兵舎が建てられていった(現在、防衛庁のあるあたり)。
 
日本の陸軍の町が、終戦後アメリカ軍の町に一変したのである。そして米軍相手のさまざまな店がつくられるようになった。現在、六本木は外国人が多い町として知られるが、その元は、終戦後のアメリカ軍の駐留にあると言っていいい(さらにそのもとには日本の陸軍の町だったことがある)。
 
昭和20年代、オキュパイド・ジャパンの頃の六本木は、米兵はじめアメリカ人の多いいわゆる「東京租界」で、日本人はなかなか近寄れなかった。2000年7月に出版されて話題になった話題になったロバート・ホワイティングの『東京アンダーワールド』(角川書店刊)は、ピザを食べさせる有名なイタリア・レストラン「ニコラス」の店主が実は、裏社会とも関わりがあったことを描き出している。「東京租界」の時代ならではの物語である。

そのアメリカの時代も昭和27年(1952)の対日講和条約の発効によるオキュパイド・ジャパンの終息、さらに昭和28年の朝鮮戦争の休戦によって変わってくる。日本の社会が次第に戦後の混乱期を脱した頃である。六本木は「東京租界」から徐々に日本人の暮らせる所になる。とはいえアメリカ時代の名残はあり、米兵相手はクラブ、バー、レストランが相変わらず多かった。
 
作家の野坂昭如は昭和32年から2年ほど六本木に住んだ。随筆『東京十二契』(文藝春秋刊、82年)のなかで当時の六本木のことをこう書いている。「20軒ほどのバァ、それに品の悪い骨董屋、中国名の洋服屋は目立ち、進駐軍専用として、青山一丁目近くにコスモポリタン、飯倉にゴールデンゲート(があった)」まだどこか「東京租界」の雰囲気が残っている。文中の「コスモポリタン」とは野坂昭如によれば日本で最初にボトルを預る、いわゆるボトルキープをはじめたクラブだという。
 
朝鮮戦争が終わり、米兵が少なくなるにつれて、次第に「東京租界」の雰囲気が薄れてくる。「31年頃から、バァやクラブは、日本人客を歓迎しはじめた。」(『東京十二契』)。

はじめに臆することなく店にやってくるようになったのは、それまで米軍基地で演奏していたジャズメンだったという。それに続いて金持の若者たちが「アメリカ」のイメージに惹かれて来るようになった。昭和34年には、米軍施設が日本に返還され、防衛庁に移った。また、この年には、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)が六本木に出来た。これによって、テレビ関係者や芸能人、さらに芸能人を追う若者たちが集まるようになった。アメリカの時代が終わり、日本の若者たちの時代が始まったのである。

「六本木族」と呼ばれる若者たちが夜遅くまでたむろして、マスコミの話題になったのはこの頃。昭和34年以降である。若い日の加賀まり子や大原麗子は当時、六本木で遊んだ若者のひとりである。「ハンバーガー・イン」「ニコラス」「香紀園」、あるいは「チャコ」「シマ」「ミスティ」といった店が彼らのたまり場になった現在の六本木のにぎわいは、この頃から作られるようになったといっていい。昭和33年に、六本木の先の芝に東京タワーが完成し、六本木が「世界一高い塔に一番近い町」になったことも、はなやかさを作った一因だった。
 
個人的なことになるが、私は、昭和33年に、六本木に近い麻布学園に入学した。中学生の頃はさすがに六本木に行く勇気はなかったが、高校生になってから時々、友人たちと出かけた。といっても、遊びではなく、「六本木族」が騒がれている町はどういうところだろうという好奇心にかられての『観光』である。

「レオス」という確か当時、東京に一軒しかなかったデリカテッセンを覗き、その食料品の豊富なことに目を丸くした。しかし、とても買うことは出来ない。交差点の近くにある古書店、誠志堂でハヤカワ・ポケット・ミステリーのアガサ・クリスティやディクスン・カーを買うのが最高の贅沢だった。(この誠志堂はいまでもハヤカワのポケ・ミスの品揃えがいい)。
 
昭和36年には渡辺マリの歌う「東京ドドンパ娘」が大ヒットし、その歌に合わせて踊る若者たちが六本木にやってきた。いわば第2次六本木族である。六本木の中華料理店で知り合った少年と少女が心中して果てる笹沢佐保の小説「六本木心中」が話題になったのもこの頃、昭和37年である。

この頃から、六本木は「東京租界」から完全に若者の町へと変わっていった。そして、六本木をさらに変えたのが、東京オリンピックがあった昭和39年(1964) の地下鉄日比谷線の開通である。それまでも都電、バスはあったが、六本木には鉄道がなく、東京の中心にありながら交通の不便なところだった。それが、日比谷線の開通によって変った。銀座が近くなった。渋谷も、乗り換えはあるが以前より近くなった。

日比谷の開通によって、六本木はさらに若者達が集まるようになり、1970年代にはディスコやゴーゴー喫茶が数多く作られ、渋谷や新宿と並ぶ盛り場になった。ハードボイルド作家の大沢在昌は、70年代、学生時代に麻布十番に住んでいた。だから遊び場は六本木だった。「六本木界隈」という随筆に当時のことをこう書いている。

「かくして私は、通学のためでなく、せっせと六本木に通った。第一次のディスコブームで、横須賀に米軍の船が着くと、夕刻には米兵がディスコに溢れていた。懸命に新しい振りを覚え、女の子に声をかけた」
 
大沢在昌は、70年代のはなやいだ六本木を「この街は、毎日がクリスマス・イブみたいだ」と評しているが、それは、現在の六本木についても言えるのではないだろうか。80年代に六本木はさらに変貌する。アクシス、フォーラム六本木といったファッションビルが出来る。映画館、本屋、CDショップがミックスしたAV空間、WAVEが開館するなど、六本木は従来の享楽的要素を新たに、おしゃれ、知的な要素が加わった。とりわけ、いまやなくなってしまったがWAVEが果たした役割は大きかったと思う。

以上、六本木の歴史を、軍隊の町、アメリカの町、若者の町と見てきたが、この町には実はもうひとつ隠れた特色がある。きらびやかな表通りのために忘れられているが、六本木は実は古いお屋敷町なのである。それも、もともとここが江戸市中のはずれだったため、明治以後、華族や実業家の広大な屋敷が作られたためである。

現在、東洋英和女学院のある鳥居坂周辺にかすかにその面影があるし、スウェーデン、フィンランド、スペインなどの大使館が多いのもお屋敷町の名残である。三島由紀夫の後期の代表作「豊穣の海」の舞台は、鳥居坂界隈の華族の屋敷になっている。

戦前の「麻布区史」を読むと鳥居坂周辺には、明治時代、宮家や華族の屋敷が集中していたという。
いま鳥居坂を歩くと、かすかにその面影が残っている。

近年、六本木を歩くことが多くなった。というのは、六本木には、映画会社が多くなったからである。ブエナ・ビスタ、20世紀フォックス、そしてGAGA。それらの映画会社で行われる試写を見に週に1度は六本木に出かけて行く。

以前は、正直なところ、クラブやディスコ中心の六本木に親しみは持てなかったが、映画会社の試写を見に行くようになってから少しずつ六本木を見る目が変わってきた。軍隊の町、アメリカの町、若者の町と変遷してきた六本木は、いま、また新しいメディアの町として変わってきているのかも知れない。

フォックスやGAGAで試写を見たあと、時々、麻布十番のほうへ坂を下る。高校時代、この町にあった東宝の映画館で、黒澤明監督の「用心棒」を見たりしたので懐かしい。おしゃれなブティックや雑貨屋のなかに、いまだ昔ながらの焼鳥屋が健全なのが有難い。ついここで『途中下車』して、焼鳥とビールになってしまう。最新の空間の中に、古い町が残っている。これこそ都市のよさだと思う。

TEXT BY 【川本三郎/雑誌「セブンシーズ」】
PHOTO BY 【写された港区 三:東京都港区立みなと図書館】


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